3月22日(月) 春の嵐、そして読書
近年の春一番は、もはや危険な暴風です。これも温暖化の影響でしょうね。
黄砂も飛んだようです。黄砂といえば、『黄砂に吹かれて』ですが、あなたは工藤静香派ですか、中島みゆき派ですか? からすうりは、みゆき。
ところで、面白い写真が撮れたのでアップ

夕ご飯を食べに行ったびっくりドンキーで、父と娘で同じポーズをとってました。親子ですね。
ピングーのリュックが当たる懸賞のために集めていた、チーズの箱を父に棄てられテンションの下がった朝。そして、ローソンのリラックマグッズが当たる懸賞のために、買うつもりでいた「からあげくん」を父が買っていなかったことにテンションの下がった夜。
……そんないくつもの不和を乗り越えつつ、なんだかんだいっても親子。似てる。
ここ数日、猛烈に活字を追っています。
活字中毒もひとつのアディクションかも、と思う今日この頃。自傷とか薬物とかじゃないから、許してけれ。
今、気になっているテーマは「家族の問題と人格障害」。読み漁っている本は、すべてこのテーマです。
先週は精神科医の斉藤学氏の書いた『家族の闇をさぐる――現代の親子関係』を読みました。読み進めるのがつらいテーマでした。幼児虐待、家庭内暴力、夫のDV、近親相姦……思わず目をそむけたくなるものばかりです。
家族という閉鎖された小さな社会は、暴力の隠蔽装置として働く。という暗いテーマについて考えています。子どもは暴力という現実に直面すると、自己防衛のために記憶を消去したり、虐待された人格を切り離したりしながら、それでも必死に愛されようとします。
胸が痛いです。
私にはこれらのケースが決して特別なものとは思えません。過去のつらい養育歴から、後に鬱病や摂食障害、自傷行為などを引き起こしている例などを見ると、他人事とは思えない部分もあります。
もちろん、本当に壮絶な過去を引きずるアダルトサバイバーの前で、たやすく「共感できる」とは言えないものがあります。しかし、多かれ少なかれ傷つくことなしに生きることができない私たちの生を考える時、また不完全な私たちが不完全なまま今度は親となって子どもを育てることを思う時、ここで起こっていることは一般の人たちから切り離された特別なこととはどうしても思えません。
この本では、人が癒されるというのはどういうことであるかにまで触れています。幼少期の深い傷が、そう簡単に治るものではないでしょうけれど、クライアントが過去の傷を乗り越えていく時の治癒のプロセスを少し知ることができました。
心理学の言葉で「ナラティブ・セラピー」という用語を近年よく耳にするようになりました。ナラティブというのは、語ることです。人はそれぞれの物語を生きています。
心に深い傷を負った人がその体験を物語ることは、つらい記憶を追体験することになりますから、ひじょうに危険なことです。治療の中でトラウマを語り始めたクライアントは、激しく心を乱したりするようです。しかし、「語り」を通過することによって、人は自分の内面を客観的に眺め、言葉に置き換えようとします。
語ることは、いわば記憶を再編集することです。
人は記憶を捉えなおすことができます。この体験によって、過去の呪縛をほどいて新しい物語を生きることができるのだそうです。
「語り」は精神療法において不可欠なもののようです。
物語は人を縛りもし、また希望を与えもするのだということを改めて感じました。
現在は同じようなテーマの本として中村うさぎ著の対談本『鏡の告白』と、派生したテーマとして佐野眞一著のノンフィクション『東電OL殺人事件』を読んでいます。
前者は整形・不倫・摂食障害・ペット依存など、様々の依存症を抱えた女性たちと中村うさぎの対話をまとめたもの。女性たちの生の声が伝わってくる本です。自身も様々の依存に苦しんできた中村うさぎが、愛ある共感的な視線で彼女たちに接しているのが伝わってきました。
からすうりも少なからず、彼女たちに共感する部分がありました。
「みんな、心に欠損を抱えながらも一所懸命生きていこうねぇ」という気持ちになりました。
後者は、有名なあの事件のルポルタージュ。斉藤学先生の本に、事件の被害者となった東電OLが症例として触れられていたので、興味を持ったのです。慶応大学を出て東電、というバリバリのエリートコースを歩んでいた女性が、夜に娼婦となって毎夜ホテル街に立っていた……ということで当時マスコミに騒がれた事件です。
私の関心は、彼女が実は亡くなった父親の影を追い続けてきた娘であり、父の死後深刻な拒食症になり、エリートだった父になろうとして青春時代遊びもせずに猛烈に勉強ばかりしていたという姿です。人は大切な人を失った時、その事実を受け止めきれず、失った対象そのものに「なろう」とすることがあるようです。
父になろうとして、自分の中の女性性を否定して会社で昇進しようと必死に生きてきたのに、その望みが挫折した時、彼女は反動のように自分を汚す行為に走った……のかもしれません。自分を汚す行為というのは、一種の自己懲罰ではないかと思えます。
自分を受け入れることができず、自己懲罰のために堕落する人の気持ちは、わからなくもないからすうりです。……とか書いてしまうと、人はドン引きするだろうか。



この記事へのコメント
一つ難しい点は、家族は客観視しづらいってことだよね。
子どもにとっては家族はたった一つのもので、他のサンプルと比較できないからね。成長してから「よそんちってそうなの?!」ってこと、あるし。
良きにつけ悪しきにつけ、人は家族から学習するしかないから、影響受けるし、親の欠点も内面化しちゃうからね。それをまた自分で認識しづらいし。
ナラティブの意義というのはブラックボックスとなっていた内面に光を当てるということなんだろうね。出てきてしまったものが重すぎるということもままありますが。
こういうシビアな問題を突き詰めて考えている時というのは、気持ちが引きずられて体調がおかしくなります。鉄分のカプセルを飲んでいても心臓はバクバクするし、頭の中に小さいおっさんがいて時々ハンマーで殴ってくるし、よくわからない吹き出物が首の付近にたくさん出るし……。
こんなに引きずられやすいのに、どうして立ち止まらざるをえないんだろう?
私も幼いころは、「夫婦円満」「尊敬する人は両親」みたいな家庭って物語の中にしかないと思っていました……そうでもないんだね。子どもは自分の育った家庭が、世界を見るときの尺度になってしまう。
ナラティブについては、マットさんの言うとおり、出てきたものが重すぎるということはあるだろうね。それはそれで苦しい。でも、本で読んだところ、トラウマが癒えるには、語りを通過することが必要条件だと書いてありました。